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2020.10.26

『六月の丸い空』

Dai Isomi

Director
Planner

まだ、ぼくがほんとうに小さく、ようやく体の毛が生えそろったくらいのころ。
ぼくとぼくの兄弟たちの知っている世界は、暗くて居心地のいい穴のなかだけだった。


穴の底から見上げると、遠くに丸い形の入り口が見えて、そこから光が差し込んでいた。
まるで、丸く切り取られた小さな空がそこにあるみたいに。

その向こうに広い広い世界があることは、お母さんが教えてくれた。
ぼくらの住む穴の中が内で、向こう側の広い世界が外。

「外の世界にはなにがあるの?」

ぼくらがそう聞くと、お母さんは穴の入り口を見つめながら決まってこう答えた。
「もう少し大きくなったらね。もうちょっと待ちなさい」

それからお母さんは笑って、ぼくの耳のうしろのところの毛をやさしく舐めてくれた。
子供あつかいされてるみたいで嫌だったけれど、そこを舐められると、なんだかくすぐったいような、それでいてなんとなく落ち着くような、そんな気がしてとても心地よかった。
実際のところ、ぼくはまだほんとうの子供だったんだ。

ぼくらは毎日、穴の底から丸い空を見上げて、その先に連なった世界を想像していた。
まだ見ぬ世界について、いつも兄弟で冗談を言いあって笑った。

そんな時、お母さんは何も言わずに黙っていた。
口元に不思議な笑みをたたえて。

やがて季節はまわり、ぼくらの体は一回り大きくなった。
同時に、居心地のいい穴は不思議とひとまわり縮んだように思えた。


そして、六月のある朝。
それはあっけないほど突然やって来た。


「もう、あなたたちは大きくなったわ。もう、どこへでも行けるし、なんでもできる」
お母さんがそう言った時の、誇らしい気持ちは今でも忘れられない。


ぼくらは冒険の旅に出る勇者たちみたいに、一列になって意気揚々と穴の丸い入り口へと向かう。
兄弟たちが次々と光の中に消えていくのを、ぼくは一番後ろから見守っていた。

いよいよぼくの番だ。
大きく息を吸い、ぼくは目を閉じる。
そのまま、ゆっくりと歩みを進めた。

一歩、二歩、三歩。
瞼の裏側が白くなったところで、ぼくはゆっくりと目を開いた。
はじめて見る外の光に焦点が合うまでしばらくかかる。

果たしてそこには、世界があった!

さまざまな雑草の生い茂った草っ原の中に、ぼくはいた。
頭上にはいつも見ていた、あの空があった。
もう、丸い形はしていない。
6月の空はどんよりと曇っていた。

まとわりつくような湿り気を帯びた空気でさえ、その時のぼくにはとても気持ちがよかった。
鼻の頭をくすぐるような、ムッとした緑の風のにおい。
ぴんと張った耳元に心地よい虫たちの羽音。

足の裏側で感じる、暖かい土のやわらかな感触。
足元でドクダミの白い花が風に揺れていた。

もうぼくは子供じゃない。
どこへでも行ける。
なんでもできる。

無限に、どこまでも続く、ぼくらの広い広い世界!

セイタカアワダチソウの間を、ぼくらは意気揚々と歩いていく。
誇らしげに、四本の足で世界を踏みしめながら。

そのとき、突然視界が開けた。
目の前に思いもつかなかった光景が広がっていた。

今にも雨が降り出しそうな曇り空の下、整然と規則正しく建ち並ぶ家々の屋根が。

無限だったはずの世界は、15メートル先で終わっていた。
ぼくらの暮らした、あの心地のいい穴があったのは、
造成されたまま放置された、宅地の真ん中だった。

立ち尽くすぼくと兄弟たちのうしろに、いつの間にかお母さんがいた。

悲しんでいるような、怒っているような、不思議な目をして。

お母さんがこんな目でぼくらを見るのははじめてだった。
「外の世界はね、狸だけの場所ではないの」

お母さんの言葉はどこか淡々としていたけれど、
その言葉自体に憂いはないように思えた。
むしろ、その声は、固い決意に満ちて、力強く聞こえた。
「みんな、よく聞いて。どんなふうに生きるかは、あなたたち次第です」

お母さんは、厳かに宣言するように続けた。

「ここで、人間たちの目を盗んで生きることもできます。人間たちはとても贅沢だから、
私たちの食べるものもたくさんあるでしょう。できるだけ見つからないように、
自動車にさえ気をつければ、もしかしたらそれはとても楽な生き方かも知れないわね」

お母さんは一度言葉を区切り、小さく改まって続けた。
「また、ここではないどこかへ行って、わたしたちがわたしたちらしく生きられる場所を
探してもいい。そこにたどり着くのはきっと簡単ではないでしょうけど、
この世界にはまだ、そんな場所が残っているはず」


ぼくと兄弟たちはどこまでも続く甍の波を見つめながら、
言葉の続きを待っていた。
「さっき言ったことは嘘じゃない。あなたたちは、どこへでも行けるし、なんでもできる。
どうするかは自分で決めなさい。それができるくらい、あなたたちは十分大きくなったわ」

お母さんの言葉は、どこか現実感がなく、冗談みたいに聞こえた。

最後に、お母さんは付け加えるようにこう言った。

「この世界であなたたちは生きていくの」

ぼくはふと、耳の後ろを舐められる、あの感触を思い出した。
そして、もうあの感触を味わうことは二度とないんだな、と思った。

振り返ると、ぼくらの巣穴の丸い入り口が見えた。
それは、ここから見るととんでもなくちっぽけだった。

ぼくらはただ黙って景色を眺め続けた。
もう、丸くはない曇り空の下で。



次は松さんです。